インターネット越しのセカンドレイパー

江ノ電を見るたびに、あのいやらしい外国人を無邪気に支持した人たちへの不信感を思い出す。

彼はただ純粋に楽しくて自転車に乗りながら手を振ったわけではない。カメラを向けている人たちは撮影を切実に楽しみにしていたし、被写体も重要なものであるそ。彼はそのことをわかったうえで、それを台無しにする行為を意図的に行った。これは私的感情に基づく立派な嫌がらせ、加害、私刑だ。

勿論、地元の人間にとって集団がカメラを抱えてやってくることは不愉快なことだったのかもしれない。だが、それは嫌がらせなり私的制裁を肯定するものではない。この点についてあまり無思慮に彼の行いを肯定する輩は理性的判断を持ち合わせているのか疑わしい。穢らわしいとすらおもう。

あの一連の流れの中で唯一理解できることといえば、むしろ彼自身の行いだと思う。彼はただ私的に闘争した。それは法的な理念はさておき、自然な振る舞いだと思う。そもそも眼前の侵害を受けている人間はそうするしそうせざるを得ないものだ。ここにはしばし選択の余地もない。

だが、それを外から無邪気に肯定するというのは、立場を有せず、緊急性もなく、平静な−つまり理性が最も能くはたらきうる時点にあって、その理性が腐っていることを示す。唾棄すべき邪悪ですらあると思う。