それが「自分ごと」となった時

科学大の件は、統合が決まった時からこれら学部群を良い感じにまとめる名前という時点でそこまで選択肢はなかっただろうから、後発者ほど使える名前の選択肢が少ない中、和文名称も英文名称もうまくシンプルなものにまとめたなと感じる。

あの規模あの知名度の大学が統合するのは(表面的には)意外ではあったけれど、工学と医療が結びつくこと自体は自然だし必要な流れだと思うし、医学部を獲得できたのは重要な成果だと思う。

むしろ個人的に失望したのは、今回の件を通じた人々の反応に思う。

たしかに、大学の構造や名前が変わるというのは"郷愁"的な側面でいえば寂しいことではある。新しい名前は自分の卒業したものではなく、湯島は自分の卒業した場所ではないし、自分の通っていた大学の同期には医学部生はいなかった。

ただ、学術・産業の高度化や人口減少に立ち向かうにあたり、さまざまな面における旧態の改革や生産性向上が求められており、その1つには大学も病院も企業も数が多すぎるため、それらの統廃合が必要という話もある。生産性の足を引っ張るもの(種々のJTBC仕草など)については意気揚々と批判しながら、いざそれを改革するための変更が自分に影響したり、自分にとって目に見えてわかりやすい形での「違和感」を持たせるものであったときにやいのやいのとあげつらったり揚げ足を取るというのは野卑な振る舞いだなと思う。

ましてや、日本のような陰湿な社会においては、先にやるというのは心的なものを含め大変な労力を伴うなか、それを先行して実施するというのは強い意志と高い能力がなければ行えないし、相手方が特に因習的で閉鎖的な医療の世界となればその精神的負荷はなおのこと大きかったであろうから、これを成し遂げようとしていることは極めて貴いことだと思う。ある種の愚直な誠実さを感じないでもないが、他の「先に誰かがやったら」精神をもつ、口先は先進的だが実態は旧態依然で因習的な組織には出来まいとおもう。彼らは今後の人口減少社会でどう太刀振る舞っていくのだろうか。

大学(に限らず組織一般に言えることではあるが)、社会政治に対しては立派に提言できるだけの能力を持っていながらも、足元の、例えば「教員が研究をやりながら雑務もやる非人道的労働環境」を変えることができないということがしばしある。でもここで一番問題なのは、仕組みや制度を変えられないことではなく、例えば背後に「一般社会で労働環境を論じるのはわかるんだけど、うちは特別だから、24/365で全てこなせる超人以外はうちには要らないんだけどな」のようなマインドセットがあって、それを変えられないことだったりする。それも、往々にして、悪いマインドセットがあるのに気づいていないわけではなく、気づいた上で変える気がないとダンマリを決め込い、そういうマインドセットが背後にあることすら悟られないように表向きの理由や外部要因を前面に出してきちんと議論検討しているフリすらする。

今回の件についても、組織や制度の設計などは言って仕舞えばきちんとやれば良いだけの話で、一番大変だったのは心理的側面だったのではないかなと推察する。だからこそ、それを率先して実現したことは目を見張るべきだし、先に述べたような悪き振る舞いに身に覚えのある人間こそきちんと我が身を振り返るべきではなかろうかと思う。