「意味」だけが存在するディストピアは美しかろう

ディストピアには意味以外の全てがある」、美しいし、ある種の"癖"としても、とてもよくわかる。けど、正誤でいえば完全に誤っていると思う。

意味と、人権や尊厳とは、相反するものに見える。
意味というのは個人に宿るものである。任意で合意した人間が集うことで集団でも持ちうることができるが、それだけだ。そういう任意集団ではない単位の集団が意味(意思や夢と言い換えても良い)を持ちうるなら、そこには何らかの抑圧や強制があろうと思う。

ナチスドイツやソ連(そして現在のロシアも)には意味があったであろう。中国もまた、「我々はかつての栄光を取り戻す最中にいるのだ」という強い意味・文脈を持っているし、そういう意味・文脈に支えられてこそあのような強い振る舞いを自己肯定しながら行える。それが良いか?という話だ。

それに、今のあり方は「意味」に本質的な価値を与えると思う。
人は本質的に自由であり、また神のもと平等である。この条件を、僕らが知りうる限り最も良い形で実装した民主主義社会のもとでは、大きな集団、ひいては社会そのものがひとつの意味を共有し持つことは難しい。自由意志による同意のもとでしか意味を共有し持つことは出来ないから。しかしそのことが意味に本質的な価値をもたらし、保証する。

逆から述べれば、意味を持ちやすい社会とは、有形無形の圧力や強制を通じてそれを達成するだろう。だが、そんな形で誰かに持たされた意味に本質的な価値は薄かろう。

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生存そのものは現象であって無意味だし、社会もまたそのように見えるかもしれない。それを美しくないと感じるかもしれない。そういう意味で、「美しいし、ある種の"癖"としても、とてもよくわかる。」

それでも、意味、文脈、意志がまず個人に宿り、それが自由意志の連帯によって大きな形を持っていく今のありかたは、最良だし、意味そのものに価値を持たせるという点で最善だと思う。

少なくとも、意味だけがあり、そしてしばし意味以外の全てが欠乏しがちな本物のディストピアよりは、よっぽどましだろう。

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余談だが、意味、意義、文脈、意志、こういったものは「ワンマン社長」のような存在によって語られがちにみえる。なぜなら、意味を与える(要するに誰か他人に「持たせる」ということだ)側からすれば、これはとても魅力的なことだからである。これは、ディストピア社会が意味を持ちがちなことにも通じる。
そして、いわゆる「インテリ」が同じようなことをしがちなのも、同じ理由からだろうと思う。自由な言論闘争を通じて彼らは(そのままの形ではないかもしれないが、多少の変形を受忍しながらであろうが)勝利できるし、そのことを彼らは知っているからである。要するに、同様に「強い」ということだ。

だからこそ、自分たちが「意味」みたいなものを語り出した時、それは力関係の勾配があることの印かもしれないし、そのことに自覚的にありたいと思う。

(このような自分にそのまま返ってきうる刃を置いておくのは身が震えることだ。)