良心的出生拒否

出生に対して否定的な人間は、出生後に親子共に降りかかる社会的私的な種々の出来事への反対感情からそうしているのだろうと思う。

私も、むしろ出生に肯定的な人間こそがエゴやご都合主義的楽観、そして潜在的モラハラの塊であると思うし、そのような人間とは決して同じになりたくない。

出生は社会や経済を発展・維持するのに必要だが、それらは先進国に対する奴隷的労働者やNIMBY的施設と同類に思える。産む人らは本人のためにやっているつもりなのだろうけど、本人のためだと思い込みつつ実態は自分(ら)の願いのためという人間ほどグロテスクで醜いものはないし、それもまたモラハラ的であると言われるゆえんの一つであろう。

私は、私の良心に照らし合わせ、決して子供を持ちたくない。

しかし、このような良心に基づいた行為が「反出生」という否定的ニュアンスを帯びた言葉によって表されることは侮辱的だと感じられる。

良心的出生拒否と呼ぶことすらできないのか。

死ぬことにご同意いただけますか

安楽死制度はあってはいけないが、それは単に「人が死にたくなるのは往々にして外的要因であるのに、それらを除去する努力をするどころか本人を消すとは何事か」という話ではない。

つい先日、私の知る人が退職を強要された。解雇ではないことにするため、本人に自ら退職依頼を出すよう同意を半ば強制的に求めたのだ。「あなたが戻ったとしても、あなたを受け入れられる部署も、あなたを受け入れたいと思う人もいないんですよ?」

同様に、安楽死制度ができたら、モラハラの配偶者がなぜか「自らの同意のもと」死ぬみたいな事案が増えることになるであろう。邪魔な人間が「自ら」進んで消えてくれる制度をありがたがるひとがどれだけいることか。

かつて相撲部屋でリンチ死亡した力士も、心不全とされあやうく火葬されかけた。この事件では死体に傷がありながらも、医師は急性心不全と診断していた。医者はグルであっただろうか。

同意は強要されるし、最悪捏造される。そのうえ死人に口はない。このことをよく考えて欲しい。

ここの読者には、安楽死を望むような人たちもそれなりにいることであろう。君たちにとって、安楽死制度とは、自ら死ぬ自由を手に入れることだと思っているのかもしれない。だが実際のところ、君たちはむしろ安楽死制度の陰で「自ら同意した」ことにされて殺される側の人間じゃなかろうか。生まれが悪ければ、親兄弟親族や配偶者などから死を強要され、ないしグルの執行屋から同意を捏造されて葬られる側の人間ではなかろうか。

人間の自由は最大限尊重されるべきだ。だが、それは人々が自らを由しとするためであって、モラハラに人を殺す武器を与えるためではない。

人間清掃工場

城南島海浜公園への道すがら、大井の埋立地のあたりで臨海斎場を見かけた。いかにも港湾道路といった広大でまっすぐな道路、ロジスティックセンターの立ち並ぶ街区の一角に並ぶそれは、「人間清掃工場」という言葉を過らせた。

今も新型コロナの死体があそこで燃やされているのだろうか。

情動行為

マッチングアプリで出会う→性行為に至る、を繰り返してたASDの知人のことが思い出され、ふと、ようするにアスぺの性的逸脱行為は常同行動というケースもままあるのだなと理解した。

情の無い人間の行う情動行為たるや。

川とまち

東京で生まれ育った人が持ちがちな誤解というと「車はいらない」だと言われる印象があるけど、これは嘘だということが四方に書かれているからみんなわかってるだろう。

むしろ、東京で育って知らないことは、「川は街を分断する」だろうと思う。

隅田川には、数百メートルおきに橋がかかっている。横十間川や大横川、小名木川にいたっては、200mも歩かずに次の橋がかかってる。そんなもんだから、東京にいると、往来するにあたって川の存在を意識することがあまりない。行こうと思えばどこからでも普通に行ける。

このルールが崩れるのが荒川や多摩川となる。そこで、東京の外郭というと、多摩川・荒川だなあという感覚を持つ。

しかし、実際関東を広く歩いてみると、むしろ荒川や多摩川の感覚のほうが普通なのだなと思われる。江戸川の下流域ですら5km近く橋がない区間がある。これは神奈川の相模川でも同様。中部は長良川では10km近くない区間があり、利根川に至っては自動車専用道を除くと15km近くないこともザラにある。

川は町を分断していたらしい。

COVID-19ワクチン、若者から打つか、高齢者から打つか。

高齢者に対してさきにCOVID-19ワクチンを打つというのは極めて理にかなったデザインだと思う。

 

第一に、薬剤には副作用がある。それは、臨床試験だけでは出ずに、広くデプロイして見えてくる部分も多い。その実験台として、若い世代、すなわちこれからあるいはすでに納税している世代で試すのは不利であり、老い先長くない世代で試す方が社会にとって理にかなっている。

 

第二に、高齢者のほうが、感染した場合の医療負担が大きい。したがって、ここに投下する方が、社会にとって理にかなっている。

 

第三に、高齢者の方が感染した場合の保菌量が多い。初期、感染を広めるのは若い世代だと叩かれていたが、現実は今までのライフスタイルにしがみつき旅行や会食を楽しんでいたのが高齢世代であった。そして、彼らの方が、感染した場合に周囲に撒き散らす菌の量も多い。したがって、ここに投下する方が、社会にとって理にかなっている。

 

しかし一方で、第四に、最もワクチンを受けたがっているのも高齢者であろうと思う。ガタピシきている身体を前に、新たな病気にかかることを最も恐れているのも、しかし一方で、老い先長くないゆえ今を楽しみたい、それも今までのライフスタイルと変わらない形で楽しみたいと最も強く願うのも、高齢者である。そして、その今までと変わらないライフスタイルの中にソフトウェアの世界が最も含まれないのも高齢者である。

 

人間の行動をデザインするにあたって、もっとも美しいのは、他人にとって社会全体にとって利益のある行動を、本人が心から願って行う、そういうあり方だと思う。本人が心からやりたがるこうどうが他人の不利益になるのはデザインではないし、他人の利益になることが本人がやりたがっているわけではない(圧されたがゆえに、あるいはなんとなく疑問をもちながらやっている)というのは、特に美しくもない。そういう意味でも、新型コロナウイルスワクチンを高齢者から先行して接種させるというのは、きわめて理にかなった美しいデザインだと思う。